2014年10月24日金曜日

交通違反取締り推進派にみえるインテリ様のご主張


とあるブログサイト(http://blogos.com/article/96759/)に
「警察官は交通違反の取り締まりでドンドン罰金を取っていい」という、
なかなか興味深い主張を拝見する機会に恵まれました。

幸か不幸かその記事に寄せられるコメントの多くは、投稿者に反対する書き込みが
多く見られるわけですが、投稿者を支持する書き込みも少数ですがあります。
支持派のコメントのなかで、もっとも興味深いものをみつけたので引用させていただき、
ワタクシなりの主張を記させていただきます。

(当該ブログサイトへの書き込み権限がなかったので、自ブログにて表現します。)

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(以下コメント引用1)
そもそも、交通取締の目的は、道路の安全を保つとか、事故を防止するとか、そういう抽象的な
ものではないはずです。目的はただひとつ、法定ルールの違反者の取締です。

自分自身の信じている「個人的正義」と「公のルール」がズレているときに、「個人的正義」を
優先させる人間がこうも多いということは、むしろ恐怖を引き起こします。
法治主義の根幹に関わる事態と言ってもいいでしょう。

なぜなら、そうした人々には、遵法意識は当然のことながら、自分が習慣的に他者の権利や
安全を脅かしているという意識が完全に欠如しているからです。

そうした態度の末に、さも自分自身の主張の方が道理に従い、また正義の主張であるかのように、理論武装を試みます。

実際にはそれは犯罪者の自己弁護のような滑稽なものなのですが、当人はまったくそうは
考えません。まるで違反を犯した自分自身の方が「普通の善良な人間」で、違反を
犯していない人間の方が「異様な間違った人間」であるかのように強弁を試みます。

しまいには、「私のような普通の善良な人間が守れない法律の方がおかしい」と
声高に主張までする始末です。

警察官が取り締まることで、「どこに監視の目があるかわからない状態」を
絶えず作らなければ、こうした「厄介な同居人」たちを管理することはできません。
これからも一層、取締活動を活発にさせてほしいものです。


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(以下コメント引用2)

悪法への対処としては、まず現行法を遵守する姿勢を示し、そのうえで、合理的に、
制限速度を上げてもよい傍証を整えるべきかと思われます。

全員が違反しがちだから、というのは法を改正する根拠にはなり得ないと考えます。

動物が飛び出てこないか、夜間はどのような視界になるか、横断歩道が直近にないために
不用意な歩行者が現れたりしないか、交通渋滞が発生しないかなどの条件を勘案して、
法律を改正するよう訴えるべきです。既に施行されている法律については、
「悪法もまた法なり」と遵守姿勢を見せなければ、ルールの改正を行うことの意義に
疑問が生じます。
つまり、制限速度を引き上げても、結局は各自が走りたい速度で走るだけ、という状況に
なってしまいかねないのです。

こうした考えが“法原理主義”という危険思想に属すかどうかについては、
いくらか議論が飛躍していると思われますので、ここでの議論は避けることにいたします。
ご返信ありがとうございました。


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ワタクシが最初に申し上げたいのは、彼の主張内容を理解し、
その機会を尊重します。そのうえで、共感できない部分について反論します。


(コメント1について)

■正義と悪の定義について
民主主義国家の基本原則から「普通の善良な人間」「異様な間違った人間」の区分について
考えると、より多数派の人間が前者となり、少数派は後者になるとワタクシは考えています。

たとえるなら、多くの国民が他人を殺害してもよいと考えるならば、それは「合法」とされる社会
システムが、民主主義社会の宿命だと考えています。
(こういう特徴を持つがゆえに特に独裁国家から愚民主義とか言われるわけですよね。)

つまり現行法が定めた規定や善悪基準にかかわらず、より多数派であることが彼の言う
「普通の善良な人間」を名乗る資格をもっていると考えています。

したがって、どちらが正義かを決定するためには

1.交通違反取締り方法のあり方に関する国民投票
2.道交法(特に法定速度)をテーマにした衆議院選挙

いずれかを実施するしかないわけですが、いまだかつて実施されたことはありませんね。

そういう状況下では「普通の善良な人間」を名乗る資格は、双方にあると考えます。
以上のことから「法に従う者が正義である」という主張を否定しませんが同意もできません。


(コメント2について)

■悪法への対処法について
悪法への対処としては、「まず現行法を遵守する姿勢を示し・・」と主張されておられますが、
かつてガンジーは徹底的な非服従・非暴力をつらぬいて英国の弾圧を振り払いました。
英国から見れば、彼はただの犯罪者ですが、多数のインド国民はその犯罪者である彼を支持し、
彼は英雄になりました。
2000年レベルで考えるなら、このようなケースは枚挙に暇はありません(非暴力を除けば。苦笑)。

そう考えると、悪法に対する不服従の姿勢の表明や実施は、一つの手段であると考えます。
むしろ多数の人間の支持をえられるならば、英雄となるかもしれませんね。



結論として、統治者との闘争なきまま形式的に民主化してしまった国の国民は、
トマス・ジェファーソンの言葉を忘れるべきではないと思います。

「われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。」


さもなくば、外的環境が揃いさえすれば、
我が国は70年前に歩んだ道を再度歩む可能性が
あることを、もう一度胸に刻むべきだと思います。

この国がまともな国家となるためには、
まずはワタクシ達自身が、常に自分の頭で考える必要があります。


民主主義国家の国民を気取るならば、
既存システムへ盲従することが、
正義をなのる唯一の方法ではないと
強く思います。







取締り110番 道交法違反・交通違反で否認を貫き 警察と闘うブログ 
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